ピエール・ルメートル『その女アレックス』

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)

「史上初の6冠達成」につられて購入。ここ5年くらいで読んだフィクションの中で一番よかった。ミステリーの枠の中におさまらない傑作だと思う。
以下ネタバレ含む。

本作はアレックスが誘拐される場面から始まる。アレックスは、不愉快な独房に閉じ込められて、苦しめられる。この場面では、彼女は一方的な被害者で、犯人は同情の余地もない卑劣漢として描かれる。やがて、犯人は警察に追い詰められて自殺し、アレックスは独力で独房から逃げ出すことになる。ここで、読者はひとまず、安心を得る。しかし、奇妙なことに、アレックスは警察に逃げ込まず、また自分の生活に舞い戻る。何もなかったかのように。第二部では、アレックスは過去何人もの男を非常な方法で殺害してきた殺人鬼として描かれる。今度は、アレックスに同情の余地はなく、偏執的な殺人者なのであるが、時折あらわれるアレックスの心理描写で、彼女が何か問題を抱えていることは示唆されている。しかし最後までそれがなんなのかは彼女の言葉では語られないままだ。彼女は、殺人鬼として、第二部の最後で死んでいく。第三部になると、彼女の死の真相を明かそうとする刑事たちの努力が描かれる。ここで、断片的な資料から、次第に彼女の凄惨な子ども時代が明かされていく。

という流れで、アレックスは、まずはじめに、誘拐事件の被害者として登場し、次に猟奇殺人事件の犯人となり、そして児童虐待の被害者として描かれる。ここでは、被害者、加害者の境界は曖昧になっており、単純な対立は存在しないのだが、事件を担当する予審判事ヴィダール(すごい馬鹿として描かれている)は以下のように言う。

「あなた方(主人公カミーユを含む刑事たち)の立場はわかりますが、もう世の中は変わりましたから……」
「それはどういうことでしょう? お聞かせください」カミーユはあえて下手に出た。
「わたしが言うまでもないと思いますが、もう加害者中心の時代ではありません。被害者中心です」
そう言うと、ヴィダールはル・グエンとカミーユを交互に見て、華麗なる結論で締めくくった。
「犯人を捕らえるのは賞賛すべきことで、警察にとっては義務でもあります。しかしながらまず注意を払うべきは被害者です。われわれは被害者のためにここにいる」(p. 105)

こういう「被害者」と「加害者」の対立を鮮明にするような考え方がこの辺で出てくるのだが、これは否定されていくテーマとしてここで語られている。被害者と加害者が混淆し、「華麗なる結論」が見えない作品世界が後半からどんどん展開されていく。そういう世界で読者を感動させるのは、真実を追い求める地道な努力であり、それをするのは主人公の刑事カミーユたちである。画家を母に持ち、自身も絵を書くカミーユはこう思う。

そしてカミーユも写真の女を誘拐事件という枠にはめて見ていた。だがモンタージュには一人の人間が描かれている。写真は写実でしかないが、絵画は真実だ。それは描く人間、描かれる人間、あるいは見る人間の現実であり、その人間の想像や幻想をまとった現実となる。(pp. 168-9)

もちろんこれは、ヴィダール的な単純な被害者・加害者の区分けを否定するような見方と対照されている。見たもの(写真)が全てではない。第三部でカミーユたちは、アレックスの遺留品や、過去の交流を丹念に調べて、真実(のようなものに)たどり着くのだが、それはまさにモンタージュの絵を書いていくような、地道な個別のパーツを調べ上げていく努力の結果であり、それは人生の縮図にほかならない。

アレックスは、孤独な女だった。死の直前にアレックスはこう思う。

アレックスはちびり、ちびりとウィスキーをなめながら、結局のところずいぶん泣いた。まだこんなに涙が残っていたのかと驚くくらい、いくらでも泣けた。
なぜならそれは、あまりにも孤独な夜だったから。(p. 323)

最初読むときは、この箇所はなんだかよくわからない。しかし、一回読み終わってからまたここにくると、とてもよくわかる。誰にも理解されないままアレックスは死んでいった。しかし、死んだあとに刑事たちは丹念な努力で真実(のようなもの)にたどり着いて、アレックスの理解者となった。アレックスにとっては遅すぎる理解者の登場だったのかもしれないが、結局のところ、われわれの世界は、みな、理解者を待ちながらウイスキーをなめている人だらけで、結局理解者など現れないことも多い。アレックスは、決して幸福な人生を送ったとは言えないだろうが、少なくとも、カミーユと通じ合い、カミーユはこの事件を通じてある種の復活を果たした。そういうなにか「よいもの」を残せたという点では、アレックスの人生は無意味ではなかったと思わせる。それが、凄惨な場面が続いたあと、救いのようなものを感じて読書を終えられる理由だろう。