『Humankind - 希望の歴史』 ルトガー・ブレグマン著、野中香方子訳

とてもよかったので久しぶりにレビューを書いてみる。これまで聞いていたいろいろなことをくつがえされた。似たようなテーマで、『暴力の人類史』(ピンカー)にも感動したが、それとセットでおすすめ。

 

著者はオランダのジャーナリスト。本書では人間の本性を明らかにしようという野心的な取り組みをしている。刊行時(2020年)若干32歳。すごい。

 

『蠅の王』

まず第二章の『蠅の王』の話でガツンとやられる。

『蠅の王』は1951年にウィリアム・ゴールディングによって書かれ、数千万部を売り上げたベストセラーだ。この話はぼくも昔読んだが、少年たちが無人島に漂流して、だんだん残虐な行為をするようになるというもの。あまり読後感がよろしくなく、個人的には好きな話ではないのだが、世の中的には傑作とされていて、著者はノーベル賞を受賞した。凄惨な第二次世界大戦のあと、人々が「人間は邪悪な生き物だ」と感じていた時代にフィットしたそうだ。

 

著者は「本当に子どものグループが無人島に漂流したらどういうことが起こるのだろう」と疑問を抱き、これがすごいのだが、ついに実例を発見する。このくだりがすごく面白いのだがはしょって結果だけを書くと、1966年にトンガの少年たちが無人島に漂流し、一年以上孤立したのちに発見・救助されたという事件だ。著者は、オーストラリアまで関係者に会いに行く。(オーストラリアとトンガは隣り合っていて、生存者の一人と救助者はオーストラリアに住んでいる)。いろいろ調べてわかったことは、『蠅の王』みたいなことは全く起こっておらず、少年たちは1年以上、平和に暮らしていたということだ。この件は少年たちが発見された当時、テレビ番組にとりあげられそうになったのだが、局のクルーが撮影した映像の質がひどくてお蔵入りになり、以降映像化されていないとのこと。そんなのをよく突き止めましたね。

 

監獄実験

似たような話で、「監獄実験」というのがある。1971年、スタンフォード大学で行われた実験で、協力者の学生を、看守と囚人に分け生活をさせると自然と権力を持った看守が残虐行為を開始するというもの。これはぼくも聞いたことがあり、映画も見た。(esという映画で、これも後味が悪くあまり好きではない)。この実験は長らく人間の本性をあらわす画期的な実験としてもてはやされていたのだが、最近になって検証した人によるとでたらめなものだったようだ。2018年にそういう趣旨の論文が業界誌にも掲載されているそう。ジンバルドという研究者が設計した実験なのだが、この方、こういう結果を出したかったのが見え見えで(※仮説を立てることは悪いことではないと思うけど捏造はいけない)、攻撃的な学生を看守側にひそませて、なるべく残虐なことをするように誘導していた。残虐なルールのうち(例えば夜中に二回点呼され起こされるとか)半数以上はこの助手の発案だったとのこと。

 

ということがあったにもかかわらず、ブレグマンによれば、この実験はいまでも心理学の教科書に載っているとのこと。

 

イースター島

イースター島の島民たちが、ばかみたいに木を伐りすぎて絶滅したという説はジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』で読んで知っていた。でもブレグマンの検証によると、これは奴隷商人と疫病のせいだったとのこと。人間はそこまでおろかではない。

 

服従の実験

1962年に行われたミルグラムの実験で、人はどれだけ権威に服従するのか、というのがある。協力者を電気椅子に座らせて、何も知らない被験者に「この椅子の上の人(悪い生徒と説明されている)には治療が必要なので、電気を与えてください」と命令する。それで人はどこまで電気を与えるのか、というもの。65%もの被験者が死の危険があると説明されているにもかかわらず最高電圧の450ボルトまで上げたという。この話もいろいろなところで聞いて知っていた。が、これもブレグマンによるとよくよく細部を検証すると印象が変わるという。まず、被験者のうち、56%は椅子の上の人が苦しんでいる様子は演技だと思っていたと。電気ショックを本物だと思った人の大半はスイッチを押すのをやめていた。また、電気ショックのスイッチをおすためには、ミルグラムのチームはかなり強く被験者に対して「おさないとだめです」「椅子の上の生徒のためなんです(よいことをしているのです)」と指示を出していた。こういう前提が説明されず、実験の印象が操作されている。

 

この実験と同じタイミングで、ナチスのアイヒマンの裁判がエルサレムで開かれており、話題となっていた。ハンナ・アーレントが傍聴し、「悪の凡庸さ」と呼んだものだ。「普通の凡庸な人間が悪に染まってしまう」ということで、ミルグラムの実験結果と符合した。ミルグラムもユダヤ人であり、国際的なこの議論の風潮に影響を受けたであろうとのこと。

 

等々、これまでに知っていたことをくつがえされた。

 

本書の冒頭、一章にあるのだが、人間は他人を邪悪だと思いがちだし、ニュースは悪い事件ほどセンセーショナルに取り上げがちだ。二回にわたる世界大戦とそれに続く冷戦は、そういう思い込みや報道傾向に拍車をかけたのであろう。そもそもジャーナリズムというのが歴史的には短い期間しか存在していない。なので、特に冷戦が終わり、世の中が確実によくなっている(貧困が減り、死亡率も下がり、戦争や殺人で死ぬ人は減っている)状況にジャーナリズムは適応できていないのであろう。オランダの社会学者のチームが調査したところによると、以下のことが分かったそうだ:

 

1991年から2005年までの間に、飛行事故は一貫して減少し、一方、事故に対するメディアの関心は一貫して高まった。その結果、あなたもお察しの通り、飛行機は安全になっているにもかかわらず、人々は飛行機に乗ることを次第に恐れるようになった。(上巻p.36)

 

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ということで、上巻はこういう感じで、「人間は文明の皮をかぶっているが一皮むくと邪悪な生き物である」というという考えを丁寧に検証し、反証していく。このプロセスがとても心地よい。定説によりかからず、疑念を抱き検証するという地道な知的な試みに感動を覚える。

 

で、下巻は、残る疑問、「ではなぜ人間は時に残酷になれるのか」という問いに答えようとする。これはまだ消化不良のところがあるが要約すると筆者の考えは以下の通り。

 

しかし、一万年前に問題が発生した。

人間が一か所に定住し、私有財産を蓄えるようになった時から、集団本能は無害ではなくなった。(※知っている集団の間では人は友好的にふるまうというもの) 資源が限られていることと階層性とが結びついて、それは急に毒を帯び始めた。そして、ひとたびリーダーが軍隊を育てて思い通りに動かすようになると、権力の腐敗は歯止めがきかなくなった。

農民と戦士、都市と国家からなるこの新しい世界で、わたしたちは他者への共感と外国人恐怖症との板挟みになり、多くは自らの集団への帰属意識を優先して、アウトサイダーを排斥した。この世界でリーダーの命令に背くのは難しかった。たとえその命令がわたしたちに歴史上の間違った道を歩ませることになるとしても。(下巻 p.63)

 

つまり、「人間は個々人では善良」「限られた知っている人たちの集団の中では善良」だけども、「大きな集団で権力者が出てくると悪いことをする」ということになる。現代社会において、大きな集団が形成されることは避けられないし、一定の権力を施政者が持つことは避けられないのだが、これに対する処方箋はまだややぬるいところがある(端的に言えば無政府主義的なことを著者は言っている)。会社の例とかで、すべて従業員の自主性に任せる会社(オランダのビュートゾルフ社)が成長しており、賞賛されている例とか。これは考えとして「あり」だが、果たしてあらゆる会社でそういうことが起こるかどうか。そういうやり方で成功した会社だけが目立つ、生存者バイアスがあるかもしれない。

 

個々人の自主性と、企業や行政組織のパフォーマンスは興味深い分野で、今後もいろいろおもしろい著作が出てくることを期待したい。

 

https://www.amazon.co.jp/Humankind-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%8C%E5%96%84%E3%81%8D%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE18%E7%AB%A0-%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/4163914072/ref=sr_1_1?gclid=CjwKCAjw_tWRBhAwEiwALxFPobdzSh3G8JeOFajSeuzO4QtmGzj6SUZvwzO_nukFv9YcX-21ppi__RoCrJYQAvD_BwE&keywords=humankind+%E5%B8%8C%E6%9C%9B+%E3%81%AE+%E6%AD%B4%E5%8F%B2&qid=1647692272&sr=8-1

 

『どつぼ超然』

最近読んで感心したもの。

町田康『どつぼ超然』
まだ読み途中なのだけど。この人はやっぱり天才だな。だいたい小説家っていうのは、脱力した文章を書く、夏目漱石的な系譜と、シリアスな一派がある。どちらかというと後者が本流なのだけど、前者の方がぼくは7-3くらいで好きで、前者の代表が、町田康、高橋源一郎、伊坂幸太郎、あたりだろう。

やたらシリアスな小説を書く島崎藤村みたいなのの影響で、日本の小説がつまらなくなったと誰かが書いていた(気がする)。

で、『どつぼ超然』。真剣に、脱力しまくっていて、すごい。<余はなにゆえにこのようなところを歩いているのだろうか。余はなにゆえ生きているのだろうか。実際の話、お紺とはなんなのか。(※この語り手が歩いてて出会った銅像の名前) なぜあんなに顔がでかいのか。わからない。なにひとつわからない。
けれども余はそれでよいと思う。わからないからといってはっちゃきになって文献を渉猟、実際にお紺がなんなのかを解明してなにになるのか。なににもならない。そんなことをしても心が寒くなるだけだ。そして今度は半吉について調べたくなるのだ。(※お紺の隣にいた銅像の名前)
中略)
そもそも、人生というのは不可思議なものだし、宇宙というのも不可思議なものだ。それを小さな理解の中に閉じ込めるのではなくして、大きな謎としてごろんと転がしておく。謎が謎であることをいちいち不安に思ったりせず、ただ善哉(よきかな)を叫ぶ。そして、おもむろにぜんざいと塩昆布を用意し、それを道行く人やメジロに振舞う。
もちろん、メジロがぜんざいを食べる訳ではないが、そんなことも含めての超然主義ということだ。>

何が言いたいのかよく分かるが、メジロとかお紺とかが意味不明で、シュール。でも、それも含めて、不可思議なものをほっておく、という読み方を読者に許すこの姿勢がよい。みょうちくりんだが、元気をもらえる。

どつぼ超然 (河出文庫)

どつぼ超然 (河出文庫)

平野啓一郎『マチネの終わりに』

今から30年以上前、ミラン・クンデラは、『存在の耐えられない軽さ』の中で、政治(プラハの春)と運命と恋愛について書いた。主人公の一人、外科医のトマーシュは、「運命的な」出会いをしたテレザと添い遂げようとするものの、運命って本当にあるのか、それが運命の出会いなのか、疑いを最後まで捨てきれない。彼は「人生はこうであるべき」という信念を持つが(ベートーベンの歌詞から来ている)、「テレザと過ごす運命だ」ではなくて「テレザと過ごす義務がある」という感覚が反復的にトマーシュに訪れる。彼は、人生のこの二通りの解釈をめぐり思い悩む。別に、相手のことが好きならそれでいいではないか、というようにも思えるが、そうではない。トマーシュの人生は、そういう意味で政治的であり、倫理的である。愛人を作りまくって、一見軽薄な人生を送る外科医の人生が倫理的であるというのはちょっとおかしいのだが、恋愛感情だけに流されず「こうすべきだ」という感覚を持っているという意味で倫理的である。ついでに言うと、トマーシュは、政治的信条をつらぬき、気に入らない書類への署名を拒み、名誉ある大病院の外科医の職を失って、職業的には破滅する。

トマーシュには何人も愛人がいる。その中で、特別な愛人の一人であったサビナは数々の男と関係するが、彼女の場合は、簡単にいうと「悪い」女で、裏切りを重ねることが人生の楽しみだった。

人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人生が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか? 何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた? 復讐された? いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。(p. 157)


ややかたちは違うが、ここで書かれている「重さ」というのは、トマーシュの人生における「運命」と似ている。この作品において、人生に意味をもたらすのは、裏切りではなくコミットであり、偶然ではなく運命なのであるが、サビナは、男に運命とかそんなものを感じることなく、重荷を背負わない人生を送る。そんなものに振り回されたくないと。しかし、一方で、ここに書かれている通り、そんな軽い人生には耐えられそうにない。
この小説の登場人物たちは、「重い」「運命的な」人生の方が意味があるのだろうなという価値観を持っているようだが、同時に、「軽い」人生、「義務感」で突き動かされる人生を過ごしているのでではないかと悩んでいるようでもある。現代の読者にも共感できる部分はあるが、こういう作品は、当時の社会の空気、イデオロギー色の濃い時代によりよくフィットしたのだろう。

平野啓一郎の『マチネの終わりに』は『存在の耐えられない軽さ』への平野の返答のように思える。どちらの小説も国際的な展開を見せ、主要人物の多くは英語・フランス語・自国語を喋るインテリか芸術家で、運命的な男女の出会いの場面で小説が始まる。謎の紹介されない語り手が物語を進めるところも同じ。音楽が小説の主要な小道具となっているところも似ている。

『軽さ』の登場人物が、自分の人生の軽さや、運命について悩む一方、『マチネ』の登場人物は、どちらかというともっとイノセントである。主人公の一人蒔野は、30歳後半まで独身貴族を貫いている音楽家であるが、別に気難しくて結婚できないとかそういうことではなく、鬱屈したところがなく、冗談を好む好男子である。一方で、実務に弱く、大事なところで携帯電話をなくしたりするだらしない男でもある(音楽家としては一流であるが)。トマーシュがベートーベンのテーゼを巡って哲学的に悩むのとは対照的に、蒔野はより純粋素朴に音楽に向き合い、日々の人生を楽しもうとしている。

もう一人の主人公、蒔野と運命的な出会いを果たす洋子は、イラクで取材をするジャーナリストであったが、ある日自分が泊まっているホテルでテロが起きて、その後、「なぜ自分が生き残ったのか」悩む。イラクに戻ることに心理的抵抗を感じる一方、「戻らないとならない、戻って取材を続けないとならない」という気持ちを持つ。この感覚は、『軽さ』の登場人物の感覚に似ているのだが、結局、洋子はイラクには戻らず、別の人生を選択する。例えば『軽さ』のフランツが、気が進まないにもかかわらず「参加しないとならない」という政治的コミットから、カンボジアでの抗議行動に参加するのと対照的である。(ちなみに、そこでフランツは傷を負い、障害を負う)。洋子が最終的に選ぶのは、イラクへの政治的なコミットではなく、自分の生活、自分本位の人生である。別に、「運命だから」ということではなく、「そうしたいから」選択をする。洋子のその選択の結果、彼女のフィアンセが傷つくことになり、そしてまた、洋子も自分の選択の結果、無傷だったとはいえないのだが、洋子が自分で取った選択と失敗、そしてその後の回復というのが、この小説の持つもっとも力強いメッセージで、読者の胸を打つ。

この小説は、現代の日本人に対し、偶然とか運命とか、政治とか個人とか、仕事のしがらみとか、そういうややこしいことは考えず、純粋に恋愛に向き合うことの美しさを伝えてくれる。好きならいいじゃないかと。平野啓一郎がこういうのを書くというのは意外だった。仕事とか政治とか、いろいろなしがらみに疲れている人に、『マチネ』おすすめです。


マチネの終わりに

マチネの終わりに

ピエール・ルメートル『その女アレックス』

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)

「史上初の6冠達成」につられて購入。ここ5年くらいで読んだフィクションの中で一番よかった。ミステリーの枠の中におさまらない傑作だと思う。
以下ネタバレ含む。

本作はアレックスが誘拐される場面から始まる。アレックスは、不愉快な独房に閉じ込められて、苦しめられる。この場面では、彼女は一方的な被害者で、犯人は同情の余地もない卑劣漢として描かれる。やがて、犯人は警察に追い詰められて自殺し、アレックスは独力で独房から逃げ出すことになる。ここで、読者はひとまず、安心を得る。しかし、奇妙なことに、アレックスは警察に逃げ込まず、また自分の生活に舞い戻る。何もなかったかのように。第二部では、アレックスは過去何人もの男を非常な方法で殺害してきた殺人鬼として描かれる。今度は、アレックスに同情の余地はなく、偏執的な殺人者なのであるが、時折あらわれるアレックスの心理描写で、彼女が何か問題を抱えていることは示唆されている。しかし最後までそれがなんなのかは彼女の言葉では語られないままだ。彼女は、殺人鬼として、第二部の最後で死んでいく。第三部になると、彼女の死の真相を明かそうとする刑事たちの努力が描かれる。ここで、断片的な資料から、次第に彼女の凄惨な子ども時代が明かされていく。

という流れで、アレックスは、まずはじめに、誘拐事件の被害者として登場し、次に猟奇殺人事件の犯人となり、そして児童虐待の被害者として描かれる。ここでは、被害者、加害者の境界は曖昧になっており、単純な対立は存在しないのだが、事件を担当する予審判事ヴィダール(すごい馬鹿として描かれている)は以下のように言う。

「あなた方(主人公カミーユを含む刑事たち)の立場はわかりますが、もう世の中は変わりましたから……」
「それはどういうことでしょう? お聞かせください」カミーユはあえて下手に出た。
「わたしが言うまでもないと思いますが、もう加害者中心の時代ではありません。被害者中心です」
そう言うと、ヴィダールはル・グエンとカミーユを交互に見て、華麗なる結論で締めくくった。
「犯人を捕らえるのは賞賛すべきことで、警察にとっては義務でもあります。しかしながらまず注意を払うべきは被害者です。われわれは被害者のためにここにいる」(p. 105)

こういう「被害者」と「加害者」の対立を鮮明にするような考え方がこの辺で出てくるのだが、これは否定されていくテーマとしてここで語られている。被害者と加害者が混淆し、「華麗なる結論」が見えない作品世界が後半からどんどん展開されていく。そういう世界で読者を感動させるのは、真実を追い求める地道な努力であり、それをするのは主人公の刑事カミーユたちである。画家を母に持ち、自身も絵を書くカミーユはこう思う。

そしてカミーユも写真の女を誘拐事件という枠にはめて見ていた。だがモンタージュには一人の人間が描かれている。写真は写実でしかないが、絵画は真実だ。それは描く人間、描かれる人間、あるいは見る人間の現実であり、その人間の想像や幻想をまとった現実となる。(pp. 168-9)

もちろんこれは、ヴィダール的な単純な被害者・加害者の区分けを否定するような見方と対照されている。見たもの(写真)が全てではない。第三部でカミーユたちは、アレックスの遺留品や、過去の交流を丹念に調べて、真実(のようなものに)たどり着くのだが、それはまさにモンタージュの絵を書いていくような、地道な個別のパーツを調べ上げていく努力の結果であり、それは人生の縮図にほかならない。

アレックスは、孤独な女だった。死の直前にアレックスはこう思う。

アレックスはちびり、ちびりとウィスキーをなめながら、結局のところずいぶん泣いた。まだこんなに涙が残っていたのかと驚くくらい、いくらでも泣けた。
なぜならそれは、あまりにも孤独な夜だったから。(p. 323)

最初読むときは、この箇所はなんだかよくわからない。しかし、一回読み終わってからまたここにくると、とてもよくわかる。誰にも理解されないままアレックスは死んでいった。しかし、死んだあとに刑事たちは丹念な努力で真実(のようなもの)にたどり着いて、アレックスの理解者となった。アレックスにとっては遅すぎる理解者の登場だったのかもしれないが、結局のところ、われわれの世界は、みな、理解者を待ちながらウイスキーをなめている人だらけで、結局理解者など現れないことも多い。アレックスは、決して幸福な人生を送ったとは言えないだろうが、少なくとも、カミーユと通じ合い、カミーユはこの事件を通じてある種の復活を果たした。そういうなにか「よいもの」を残せたという点では、アレックスの人生は無意味ではなかったと思わせる。それが、凄惨な場面が続いたあと、救いのようなものを感じて読書を終えられる理由だろう。

NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言』

日本海軍400時間の証言―軍令部・参謀たちが語った敗戦

日本海軍400時間の証言―軍令部・参謀たちが語った敗戦

2009年、NHKは戦後日本海軍の中堅将校が集まって続けてきた、「反省会」のテープ400時間をもとに、特番を放送した。本書は、その特番を作成した担当者たちが綴った、番組作成の記録である。
資料のすごさは伝わってくるが、どうも書籍としては中途半端である。「反省会で話されている海軍の失敗を決して過去の事として語らず、現代への教訓を探す。その際、その事を自分たちの問題として語る」という制作姿勢だったそうだ。しかし、そんなことが可能なんだろうか。組織としての腐敗をとりあげて、現代に通じる課題として認識するのは分かるが、そういうことを言ったら、西武ホールディングスの不祥事だって、ナチスの失敗だって、ジンバブエのムガベの失敗だって「自分たちの問題として語る」ことを迫られないだろうか。単に日本人だから、海軍の失敗は特別な語り方ができるのだろうか。そんなことはないと思うのだが。なんだか、そういう立ち位置の設定にナイーブなものを感じる。
本書の白眉は、資料発掘の過程(これはわくわくする)に尽きる。こうやって歴史が発掘されていく、という瞬間に読者は立ち会うことができる。そこで語られているのが醜悪な場面や悲劇的な場面であったとしても、こうして後世の人間が歴史を発掘することで、無駄な死を遂げた兵士たちが(航空特攻の命中率は11.6%、人間魚雷回転の命中率は2%にすぎないという予測が紹介されている – p. 182)少しでも報われるということがあるのかもしれないと思う。

Ian MacEwan, Solar / イアン・マキューアン『ソーラー』

Solar

Solar

出張先の空港で、読むものがなかったので購入。太陽光関係の仕事しているし。いやーすごい小説でした。何しろ、バックカバーの評語がすごい。Financial Times は、”A stunningly accomplished work, possibly his best yet… both funny and serious, light and dark, morally engaged and ironically detached.” だと。そんな小説読んでみたくなるでしょう。

主人公のBeard博士は、昔ノーベル物理学賞をとった科学者という設定で、物語冒頭では、イギリスの国営新エネルギー研究センターの所長をしている。背が低く、小太りで、少し傲慢なところがあるが、しかし、”unaccountably attractive certain beautiful women” という設定。このあたりから、筆者のアイロニカルな筆致が楽しめる。Beardは酒癖と女癖が悪く、何度も離婚を繰り返している。そして、今回のPatriceとの結婚は最悪で、自分の浮気が原因なのだが、Patriceは大工のTarpinと浮気を始めて、それを様々なかたちでBeardに見せつけるようになった。Beardは悩む。それで、気分転換に、招待された北極海見学ツアーに行くことにする。科学者とか活動家を集めて、「ほら氷河が解けている、白クマが減っている」とか言って、温暖化対策を後押しするという企画。しょうもない。がいかにも、ありそう。
ツアーの初日、Beardは目的地近傍の空港に着き、ホテルで。翌朝、一行はホテルから船へとスノーモービルで移動する。外はマイナス26度の厳寒である。スノーモービルで移動中、Beardは、35時間一度も小便に行っていないことに気づく。しかし、厳寒対策で、ものすごい厚着をしている。どうする。どうしようもない。Beardは、一行から逸れて、脇道で立ち小便をする。よかった。しかし、よくなかった。厳寒の中で、Beardのち○こは、ジッパーに張り付いてしまう。しまった!しかし、遅い。刻々と時間が過ぎていき、ち○こは、縮んでいき、しかも白くなっていく。このあたりが細かいのだが、「クリスマスの飾りものの鈴」みたいな白、だそうだ。ここで、Beardは物理学者として気づく。そうだ、ホテルのバーから持ってきたブランデーの小瓶があった。酒飲みバンザイ!ブランデーは凍らない。Beardはブランデーをち○こにかけて、ジッパーから引きはがす。めでたしめでたし。Beardを心配して駆け付けたツアーガイドと合流し、同じスノーモービルに乗って、目的地の船に向かう。ところが、そのスノーモービルの後ろの席にいるとき、Beardのズボンの中で、何か小さくて硬いものが転げ落ちてひざのあたりをごろごろしている。。。Beardはパニックに陥る。そして、船に着く。船で着替えていると、そこに、Beardが気になっているツアー一行中で一番の美女Polkinghorneがやってきて、Beardに気がありそうな会話をする。会話の終わりに、美女が気づく。「あら、あなたのズボンの下のところから、何か小さいものが落ちて来たわよ」。

しょうもない。この先もおもしろいが、このあたりの展開が最高である。全編こんな調子なのだが、Financial Timesの書評通り、ときどきえらくしんみりしているのだ。例えば、こんな箇所。

Polkinghorne’s disembodied smile presided over Beard’s melancholic reflections on the end of his marriage. He experienced a genial blend of sadness, anger, nostalgia (those early months were bliss), and a warm, forgiving sense of failure. (p. 71) 「ピルキントン女史の、想像の笑顔は、結婚生活が終わりつつあるというベアードの追想にまとわりついてきた。彼は、悲しさ、怒り、美しい思い出(最初の数カ月は至福であった)、それと、温かく自己肯定的な敗北感、のないまぜになったぬるい感傷にひたっていた。」

なんかこの、forgiving sense of failure という書き方がすごいと思った。
太陽光はやっているし、どこかで邦訳して映画にでもならないでしょうか。あ、あとの方でちゃんと太陽光の話は出てきます。

増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下) (新潮文庫)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下) (新潮文庫)

出版当時から気になっていて、文庫になったので購入。ものすごくおもしろい。
木村政彦は戦前・戦後の柔道家で、柔道界で「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」と言われる、最強の男である。師匠・牛島辰熊との毎日10時間の特訓で、ものすごい実力を身に付けた。残念ながら戦争中に兵役にとられたりしてキャリアが途絶えたが、戦中のブランクをものともせず戦後全日本選手権で優勝した。その後プロレスに転向する。
本書の半分は、そのプロレス転向前の、猛稽古と、おそろしい木村の強さの描写に割かれている。ともかく、その描写がすごい。戦前のことなので、資料も限られていたはずだが、活き活きと稽古風景や試合の情景が描き出されている。並みの情熱と実力ではここまで書ききれないはずだ。
木村はプロレスに転向したあと、ブラジル興業に出て、グレイシー柔術の開祖・エリオを倒したりした。グレイシー一族は今でも木村を尊敬している。ブラジルから帰国後、やがて木村は力道山と決戦する。もちろんプロレスなので、台本があって、木村と力道山はその試合で引き分ける約束と交わしていたとされる。それを力道山が裏切って、木村から凄惨なダウンを奪い、木村に「生き恥」をかかせた。
それで、表題の問いになる。筆者は、冒頭であれだけ勝負にこだわる木村が、「なぜ力道山を殺さなかったのか」という問いを立てる。その問いは、「なぜ木村は力道山に負けたのか」「木村の方が強かったのではないか」「なぜ最強の格闘家が負けるのか」という問いに次第にシフトしていく。
これは無情な問いかけであって、答えはない。というか、栄えるものは必ず滅びるのであって、誰でもやがて花道を離れていく。木村の場合には、卑怯な相手に巡り合ったために、たまたま悲劇的なかたちで、突然業界の花道から追い出されてしまったということだ。従って、本書も、そういったありふれた悲劇を追いかけた一冊であるのだが、ありふれた悲劇を芸術作品に昇華させるのは、悲劇の主人公に対する、書き手の愛情と才能だけしかないのであって、そういう書き手を得た木村政彦は幸せだろう(本人は1993年に他界)。