増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下) (新潮文庫)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下) (新潮文庫)

出版当時から気になっていて、文庫になったので購入。ものすごくおもしろい。
木村政彦は戦前・戦後の柔道家で、柔道界で「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」と言われる、最強の男である。師匠・牛島辰熊との毎日10時間の特訓で、ものすごい実力を身に付けた。残念ながら戦争中に兵役にとられたりしてキャリアが途絶えたが、戦中のブランクをものともせず戦後全日本選手権で優勝した。その後プロレスに転向する。
本書の半分は、そのプロレス転向前の、猛稽古と、おそろしい木村の強さの描写に割かれている。ともかく、その描写がすごい。戦前のことなので、資料も限られていたはずだが、活き活きと稽古風景や試合の情景が描き出されている。並みの情熱と実力ではここまで書ききれないはずだ。
木村はプロレスに転向したあと、ブラジル興業に出て、グレイシー柔術の開祖・エリオを倒したりした。グレイシー一族は今でも木村を尊敬している。ブラジルから帰国後、やがて木村は力道山と決戦する。もちろんプロレスなので、台本があって、木村と力道山はその試合で引き分ける約束と交わしていたとされる。それを力道山が裏切って、木村から凄惨なダウンを奪い、木村に「生き恥」をかかせた。
それで、表題の問いになる。筆者は、冒頭であれだけ勝負にこだわる木村が、「なぜ力道山を殺さなかったのか」という問いを立てる。その問いは、「なぜ木村は力道山に負けたのか」「木村の方が強かったのではないか」「なぜ最強の格闘家が負けるのか」という問いに次第にシフトしていく。
これは無情な問いかけであって、答えはない。というか、栄えるものは必ず滅びるのであって、誰でもやがて花道を離れていく。木村の場合には、卑怯な相手に巡り合ったために、たまたま悲劇的なかたちで、突然業界の花道から追い出されてしまったということだ。従って、本書も、そういったありふれた悲劇を追いかけた一冊であるのだが、ありふれた悲劇を芸術作品に昇華させるのは、悲劇の主人公に対する、書き手の愛情と才能だけしかないのであって、そういう書き手を得た木村政彦は幸せだろう(本人は1993年に他界)。