平野啓一郎『マチネの終わりに』

今から30年以上前、ミラン・クンデラは、『存在の耐えられない軽さ』の中で、政治(プラハの春)と運命と恋愛について書いた。主人公の一人、外科医のトマーシュは、「運命的な」出会いをしたテレザと添い遂げようとするものの、運命って本当にあるのか、それが運命の出会いなのか、疑いを最後まで捨てきれない。彼は「人生はこうであるべき」という信念を持つが(ベートーベンの歌詞から来ている)、「テレザと過ごす運命だ」ではなくて「テレザと過ごす義務がある」という感覚が反復的にトマーシュに訪れる。彼は、人生のこの二通りの解釈をめぐり思い悩む。別に、相手のことが好きならそれでいいではないか、というようにも思えるが、そうではない。トマーシュの人生は、そういう意味で政治的であり、倫理的である。愛人を作りまくって、一見軽薄な人生を送る外科医の人生が倫理的であるというのはちょっとおかしいのだが、恋愛感情だけに流されず「こうすべきだ」という感覚を持っているという意味で倫理的である。ついでに言うと、トマーシュは、政治的信条をつらぬき、気に入らない書類への署名を拒み、名誉ある大病院の外科医の職を失って、職業的には破滅する。

トマーシュには何人も愛人がいる。その中で、特別な愛人の一人であったサビナは数々の男と関係するが、彼女の場合は、簡単にいうと「悪い」女で、裏切りを重ねることが人生の楽しみだった。

人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人生が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか? 何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた? 復讐された? いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。(p. 157)


ややかたちは違うが、ここで書かれている「重さ」というのは、トマーシュの人生における「運命」と似ている。この作品において、人生に意味をもたらすのは、裏切りではなくコミットであり、偶然ではなく運命なのであるが、サビナは、男に運命とかそんなものを感じることなく、重荷を背負わない人生を送る。そんなものに振り回されたくないと。しかし、一方で、ここに書かれている通り、そんな軽い人生には耐えられそうにない。
この小説の登場人物たちは、「重い」「運命的な」人生の方が意味があるのだろうなという価値観を持っているようだが、同時に、「軽い」人生、「義務感」で突き動かされる人生を過ごしているのでではないかと悩んでいるようでもある。現代の読者にも共感できる部分はあるが、こういう作品は、当時の社会の空気、イデオロギー色の濃い時代によりよくフィットしたのだろう。

平野啓一郎の『マチネの終わりに』は『存在の耐えられない軽さ』への平野の返答のように思える。どちらの小説も国際的な展開を見せ、主要人物の多くは英語・フランス語・自国語を喋るインテリか芸術家で、運命的な男女の出会いの場面で小説が始まる。謎の紹介されない語り手が物語を進めるところも同じ。音楽が小説の主要な小道具となっているところも似ている。

『軽さ』の登場人物が、自分の人生の軽さや、運命について悩む一方、『マチネ』の登場人物は、どちらかというともっとイノセントである。主人公の一人蒔野は、30歳後半まで独身貴族を貫いている音楽家であるが、別に気難しくて結婚できないとかそういうことではなく、鬱屈したところがなく、冗談を好む好男子である。一方で、実務に弱く、大事なところで携帯電話をなくしたりするだらしない男でもある(音楽家としては一流であるが)。トマーシュがベートーベンのテーゼを巡って哲学的に悩むのとは対照的に、蒔野はより純粋素朴に音楽に向き合い、日々の人生を楽しもうとしている。

もう一人の主人公、蒔野と運命的な出会いを果たす洋子は、イラクで取材をするジャーナリストであったが、ある日自分が泊まっているホテルでテロが起きて、その後、「なぜ自分が生き残ったのか」悩む。イラクに戻ることに心理的抵抗を感じる一方、「戻らないとならない、戻って取材を続けないとならない」という気持ちを持つ。この感覚は、『軽さ』の登場人物の感覚に似ているのだが、結局、洋子はイラクには戻らず、別の人生を選択する。例えば『軽さ』のフランツが、気が進まないにもかかわらず「参加しないとならない」という政治的コミットから、カンボジアでの抗議行動に参加するのと対照的である。(ちなみに、そこでフランツは傷を負い、障害を負う)。洋子が最終的に選ぶのは、イラクへの政治的なコミットではなく、自分の生活、自分本位の人生である。別に、「運命だから」ということではなく、「そうしたいから」選択をする。洋子のその選択の結果、彼女のフィアンセが傷つくことになり、そしてまた、洋子も自分の選択の結果、無傷だったとはいえないのだが、洋子が自分で取った選択と失敗、そしてその後の回復というのが、この小説の持つもっとも力強いメッセージで、読者の胸を打つ。

この小説は、現代の日本人に対し、偶然とか運命とか、政治とか個人とか、仕事のしがらみとか、そういうややこしいことは考えず、純粋に恋愛に向き合うことの美しさを伝えてくれる。好きならいいじゃないかと。平野啓一郎がこういうのを書くというのは意外だった。仕事とか政治とか、いろいろなしがらみに疲れている人に、『マチネ』おすすめです。


マチネの終わりに

マチネの終わりに