魯迅『故郷/阿Q正伝』

故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫)

故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫)

中学か高校のときに「故郷」を読んで印象に残っていて、他も読んでみたいと思っていたのだが、光文社の新訳文庫で出て、ようやく読む気になった。

結論としては、「故郷」以外はあまり読む価値がない。表題作の「阿Q正伝」は、どうも世間とうまく溶け込めない男が、つまらない人生を送りながらもろもろの悲しい・楽しい小さな事件を起こしていくという物語。解説によれば、村上春樹はこれを評して「作者が自分とまったく違う阿Qという人物の姿をぴったりと描ききることによって、よこに魯迅自信の苦しみや哀しみが浮かび上がってくるという構図になっています。その二重性が作品に深い奥行きを与えています」と書いているそうだが、あまり「ぴったりと描ききる」という印象は受けず、単なる浮ついた文体が気になる作品になっている。むしろ、私小説的な作品、「故郷」とその他自伝的エッセイが秀逸である。ときどきフィクションよりエッセイの方がうまい小説家がいるが、魯迅もその一人であろう。

魯迅の問題意識は分かりやすい。本書収録の自伝的エッセイ「自序」では、仙台の医学校を辞めて東京に行くことにした理由を以下のように述べている。<およそ愚弱な国民は、たとえ体格がいかに健全だろうが、なんの意味もない見せしめの材料かその観客にしかなれないのであり、どれほど病死しようが必ずしも不幸と考えなくともよい、と思ったからである。それなら私たちの最初の課題は、彼らの精神を変革することであり、精神の変革を得意とするものといえば、当時の私はもちろん文芸を推すべきだとかんがえ、こうして文芸運動を提唱したくなったのだ。> (p.254)

「およそ愚弱な、、、」というのはかなり今でいうところの「上から目線の」考えである。それを別に否定するわけではないが、そういう視線の持ち主が社会的弱者の阿Qを描こうとしてもうまくいくはずがない。漱石にしても高等遊民を書いているのでおもしろいのである。やはり文芸としての完成度が高いのは、高級官僚の「僕」がかつて一緒に遊んだ閏土(ルントウ)のことを思う、「故郷」だろう。その最後の一説。<僕は希望について考えたとき、突然恐ろしくなった。閏土が香炉と燭台を望んだとき、僕が密かに苦笑さえしたのは、彼はいつも偶像を崇拝していて、それを片時も忘れないと思ったからだ。いま僕の考えている希望も、僕の手製の偶像なのではあるまいか。ただ彼の願いは身近で、僕の願いは遥か遠いのだ。
ぼんやりとしている僕の目の前では、一面に海辺の新緑の砂地が広がり、頭上の深い藍色の大空には金色の満月がかかっている。僕は考えた---希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。> (pp. 68-9)

名文であるが、今読むと随分上から目線なのが分かる。閏土の願いは「身近」で僕のは遠い、と言ってしまう姿勢は、なかなかの「自分大好き」タイプであって、村上春樹的な空気が漂って、なぜこの作品が好きなのか少し分かったような気がする。「道」の比喩が有名なのだろうが、その直前の「新緑の砂地が広がり、頭上の深い藍色の大空には金色の満月がかかっている」がまた美しく、深い藍色と満月のコントラストは、『ねじまき鳥』の語り手が井戸の中で思索に耽るシーンと重ならなくもない。