猪瀬直樹 『昭和16年夏の敗戦』

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

太平洋戦争開戦直前、「総力戦研究所」なる首相直轄の組織が立ちあがった。30歳から35歳くらいの中堅エリートが各官庁から、加えて数名の民間企業社員が三十名程度集められ(わざわざ満州から招集されたものもいた)、「総力戦研究」を行うことになった。

ものものしい名称とは裏腹に、実際には何をやるかも事前に練られておらず、所員たちは半ば当惑しながら所長の指導のもと研究を続けた。「研修」の中には体育の時間もあり、30過ぎの中年たちには酷であったそうだ。のどかな話である。ああいう時代には、面倒なこともたくさんあっただろうが、開戦前にはまだこういう大らかさは存在していたのだろう。

猪瀬直樹が描き出すのは、その総力戦で行われた机上演習の内容である。集められた所員たちは、戦争の専門家ではないが、各省庁で国家の運営にあたるエリート官僚たちと、エリートサラリーマンたちである。日米戦必敗という当然の、冷徹な結論に間もなく到達する。

結論は、東条首相にも直接伝えられた(その場の辻正信の恫喝の描写などが生々しい)。東条は、意外と素直に耳を傾けていたらしい。

本書を読むまで知らなかったが、昭和天皇は東条を首相として指名する際に、(それまで陸軍主導で固められていた戦争に突入する)方針を、もう一度なかったものとして再度政策を考えること、と指示をしていたそうだ。東条は、当然それを、「開戦不可」との命令と受け止めて、軍官僚として必死に主戦派を食い止めようとした。このあたりの彼の葛藤の描写は本書の白眉である。

それでも、結局日本はばかな戦争を始めて、たくさんの人が死んだ。当時の陸軍としては、それまでにも多大な犠牲を払って獲得してきた中国大陸での利権をあきらめ、軍を引き揚げることはできなかった。「サンクコスト」を意識して間違った意思決定をしてしまう典型的な例である。過去のことは過去のこととして、未来を考えないとならない。

ところで、1941年7月24日の義勇兵派遣委員会における演説で、ルーズベルト大統領はこういうことを言っているそうだ。なんとなく想像できる話だが、ここまで生々しい発言を読むのは初めてで、衝撃的だったね。<世界戦争は現在行われており、ある期間---約二カ年も---行われてきた。戦争のごく当初からわれわれの努力の一つは、戦争が勃発していない地域に世界戦争が波及するのを防止しようということであった。これらの場所の一つは太平洋と呼ばれる地域、地球上の最大地域の一つである。その南太平洋には、蘭印、海峡植民地および印度支那のごとく、ゴム、スズ、その他のいろいろな物資をわれわれがそこから得なければならない場所が存在するのである。さらにオーストラリアの肉、小麦および穀物の余剰をイギリスの手に入るよう助けなければならなかったのである。南太平洋に戦争が勃発するのを防止するのは、われわれの利己的な国防見地からみて非常に重要であった。……ところが、ここに日本と呼ぶ国がある。彼らは北にあって彼ら自身の石油を持っていなかった。そこでもし、われわれが石油を切断してしまったなら、彼らはいまから一年前に多分蘭印に降りて行ったであろうし、そうすれば諸君は戦争に入っていただろう。そこで「ある希望をもって、アメリカの石油を日本に行かせている手段」と諸君が呼んでもいい手段があり、その手段は、われわれ自身の利益のために、イギリスの防衛および海洋の自由の利益のために、南太平洋をいままで二カ年間も戦争の埒外に保たせるように働いてきたのである> (pp. 175-6)