須賀敦子『トリエステの坂道』

トリエステの坂道 (新潮文庫)

トリエステの坂道 (新潮文庫)

イタリアもので有名なエッセイスト、小説家のエッセイを集めた一冊。イタリア生活の大先輩でございます。

著者の過去の思い出を綴った短編がおさめられており、まったくもって後ろ向きでしんみりし過ぎで、明るくないし、思ったほどイタリアのことが勉強になるわけでもなく、須賀家の内幕がうかがい知れるだけなのであるが、文章がまっこと美しく、このところは感心するほかない。例えば、こんな箇所。<陽射しのあかるい朝だったようにも思う。いや、すこし汗ばむ夏の終わりの午後だったかもしれない。街はずれのしゅうとめのところにいくと、ドアが半開きのままになっていて、家の中はからっぽだった。私がミラノで暮らすようになった1960年前後のことで、みじかい時間ならまだ泥棒を心配することなく開けはなしておくこともできた。もっとも鉄道員官舎のいわば小さな団地の一棟だったから、表通りから中庭に通じる大きな鉄門の入り口には、門番で靴直しの店もやっているブルーノさん一家の住居があって、一応、夫婦とふたりの息子たちが人の出入りには注意していたし、住人は住人で、見なれない顔に階段口などで出会えば、用心のためというよりは好奇心をおさえきれなくて、たちまち話しかけて訪問先をたしかめた。> (p.135 「セレネッラの咲くころ」)

これは冒頭の部分だが、一気にタイムトリップして60年代のミラノに意識がとばされる。鮮明に光景が浮かぶ。

これは結構不思議だ。日本人が憧憬を覚えるような風景ではないし、そもそも「あかるい朝」なのか「夏の午後」なのかも分からないのだ。さらに、「…からっぽだった」というところまでは、ある特定の状況を描いているんだけど、その次の文から、いきなり当時の一般状況の描写に入る。ということで、あっちこっちに描写が飛ぶし文章もうねうねしているんだけど、なんか思考の流れをうまく描けているのだと思う。

最近の書き手はこういうシンプルだけど深みのある文章を書かなくなったね。個人的には深みはないけど茶目っけのある文章の方が好きなのであるが、久々に美しい日本語に触れられた気がしたので星4つ。