基礎経済科学研究所編 『時代はまるで資本論』

時代はまるで資本論

時代はまるで資本論

去年の春ごろ、イタリアで読むための本を大量に青山のABCで買いこんだときの一冊。当時はまだ金融危機の影響が濃厚で、ケインズに学べとか、もっとさかのぼってマルクスに帰れとか、そんな空気があった。『蟹工船』もはやっていた。んで、信頼するABCが平積みにしていたので、まあおもしろいのかなと思って買ったが大外れ。

現代に起こっているいろいろなことを無理やり資本論の分析に結び付けようとしているのが見苦しくてしょうがない。そんな都合よく昔の本を解釈してはいけないよ。聖書じゃないんだから。例えばこんな箇所。<お金の流れを変えることによって、流通過程の価値収奪という市場経済と消費社会の問題性を克服することが必要です。>

これだけでも「市場経済」って意味分かって使ってるんですか?という感じだが、、、<この問題を考える際の一つのポイントは、『資本論』で展開された物象化と物神性の問題です。現代市場経済では、消費者ローンという信用貨幣の形態をとってまで物象化が進行することによって、消費社会を市場経済の中に取りこんでいます。物神性に人々からからめとられ、お金がすべてという世界が生じていますが、ほんとうにお金を食べて生きていける人間はいません。物神性の覆いをとりはらい、人と人の関係が見える新しいお金の流れをつくりだすことから、お金がすべてという倒錯した世界を変えていける可能性があります。そこから生まれる人と人の関係性の復活は、人間発達の基礎ともなり、同時に市場経済と消費社会の問題解決の一つの糸口になると考えられます。> (pp. 110-1)

うーん、書き写しているだけでも気分が萎える。本気で言っているのかな。「新しいお金の流れ」って何?あなたの言う「人間発達」って何?ほんとに今の世界ってお金がすべて?

お金はツールだってみんな分かっている。人間とフェティシズムは縁が切れないので、無駄にツール好き、ガジェット好き人がいるように、無駄にお金に惚れこんでしまう滑稽な人がときどきいるのは仕方がないんじゃないか。ただ、基本的に、ツールは便利な方がよいので、そういうところで無駄にお金に色をつけたり名前をつけたりしない方がよい。そんなの、世の中を不便にするだけ。<いまではわたしにも、真のマルクス主義の本質はあらゆる疑いを含む科学理論だとわかっています。最も困難だったのは、義務感(※立場からくる政治的な)とそうした疑いを組み合わせることでした。> (ヘールト・マック『ヨーロッパの100年』、下巻 p.157、元ポーランド共産党中央委員会書記ヴワディスワフ・マトヴィンのことば)

この言葉の方がよっぽどぐっとくる。世の中をマルクスの経典に合わせてむりくり解釈しているうちは、「あらゆる疑い」なんていうラディカルな境地には永遠に到達できないだろう。