筑波昭『津山三十人殺し』

津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇 (新潮文庫)

津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇 (新潮文庫)

1981年刊行、2001年加筆修正して文庫化。2013年1月読了。
最近よく読んでいる、「事件もの」の中の一冊。アマゾンのおすすめに出てきたので買ってみた。

1937年、都井睦雄という22歳の若者によって、岡山県内のある村落の住民30人が惨殺された。刀剣と銃による犯行であった。都井は犯行後自殺した。都井は、自分が結核と信じて疑わず(軽い肺尖カタルという診察が主であって、結核という診断を下したのは徴兵検査の担当医だけであった)、そのせいで村民が自分を避けているという妄想にとらわれていた。実際には、村民のうち、都井が肺病と知っていたものは少なかった。都井は、性に対して偏執的とも言える、非常な興味を持っており、村落内の人妻の家に上り込んでは、「弱みを握っている」と言って関係を迫った。それら女の中には、金品と引き換えに関係を持つものも多かった。ところで、「弱み」というのは、都井自身が夜中に村落をうろつきまわって収集した、男女関係の情報であって、60歳を超える村の有力者がいろいろな婦女子と関係を持っていることを都井は知っていた。本書に引用されている資料によれば当時の山陰・山陽地方あたりでは、そういう奔放な人間関係はあまり珍しくなかったようである。宮本常一の『忘れられた日本人』を思い出した。

都井が犯行に踏み切ったきっかけは、関係を持っていた女のひとりに、「裏切られた」からであった。「金品と引き換えに関係を強要された」と村中に言いふらされ、そのことで都井の部落での信望は失墜した。もともと、輪の中心にいるような人物でもなかったようだが、学校での成績は非常によく、級長なども任されていてそれなりに一目置かれるところはあったようだが、それが「頭はいい変わり者」から「頭はいい質の悪い変質者」へと変わってしまった。

というようなことを、著者は淡々と描いていく。古い事件なので、資料も取材対象も限られていて、大変だっただろうと思う。著者の丹念な取材努力を称えたい。著者は新聞記者をしている時代にこの事件のことを知り、なんとなく調べ始めて一冊の本にしてしまったそうだ。

だいたい、現代の日本でこういう事件が起きると、「学校が悪い」「ネットゲームが悪い」「バラエティ番組が悪い」とかそういう「犯人探し」が始まるものだが、当時もそういう論評があったらしい。60年経っても評論というのは進歩していないのかもしれない。当時の評論家はこのような文章を残している。

<つまり、生得的素質的殺人者ではない彼が、あたかも素質者の犯罪であるかの如く、落ち着き払って殺人を処理したところに、この事件の特徴があるのであって、ここに時代の影響があるかないかを見究めるのが、いわゆる時代批評家の仕事のように思われる。彼の遺書によると、こうまでする気はなかったが、成行きで致し方なかったという意味が書いてあった。成行きとは客観的な事件の発展であるか、それとも彼自身の心の上の展開についていったものか判然としないが、なにか彼自身の意志しない力が彼を強圧して、かくあらしめたというつもりなのかもしれない。社会意識ということばが、社会それ自体の意識を意味するものであるか、個人の精神の上の状態であるにすぎないか、といった事項などは私の知る限りではないが、いやしくも社会が有機的の結びつきであり、単位として個体であることを信ずる人々なら、個体の部分に対し責任を感じないはずはないと思われる。
今朝新聞を開いてみると、愛人と一緒になれるまでは断じて警察の留置場を出ないと頑張っているモダン娘の話が載っている。かような気違いじみた苦々しい話を聞くにつけても、私はいつでも世の中というものを振り返って見る習慣に馴らされているのだ。三十人殺しの彼も留置所のモダン娘も、つまり世の中の一分子であってみれば、世の中の意思が働いていないという道理はない。してみれば、世の中が自戒し反省するよりほか致し方がないのであろう。> (pp. 89-90, 『サンデー毎日』1938年6月12日号より、阿部真之介の評論)

なんとなくするっと読んでしまうのは、現代でもこういう論評が横行しているからであろう。この場合の彼は「世の中が自戒し反省するよりほか致し方がない」と訳の分からないことを言っている。この結論はともかく、こういう議論が当時からなされているのは興味深い。

なお、似たような事例はドイツの村で起こっているそうである。1913年、ドイツのミュールハウゼンという村で9名が殺害された。犯人のワグネルという男は、ミュールハウゼンに来る前に自宅で家族4名をも惨殺している。犯人は日常極めて普通の生活をしていたようだが、犯行に先立つ1911年、ミュールハウゼンで家畜との淫行に及んだことがあり、そのことをずっと後悔し「村では皆が知っているはずだ」と信じて疑わず、その偏執的信念が犯行の動機となったということである(本書pp. 96-104)。

結局のところ、こういう異常事件は、おおざっぱに言って確率論的問題で起こるのであって、因果の問題ではないのではないかという気になってくる。こういう事例は洋の東西を問わず、何年か、何十年かに一回起こっているのであろう。それは、「社会」とか「ネットゲーム」とかのせいではなく、人間という機構のどこかに、確率的に発現するそういう欠陥があるということなのではないかと思う。