樋口毅宏『ルック・バック・イン・アンガー』

ルック・バック・イン・アンガー

ルック・バック・イン・アンガー

2012年11月刊。2013年1月読了。

町山智浩がブログで激賞していたので、購入。エルロイや花村萬月と似たような作風で、既視感があることは否めないが、この壊れっぷりは素晴らしい。暴力と奔放な性描写で満ち溢れ、倫理崩壊と呼ぶのがふさわしいような作品世界の中で、一抹の、なんとも言えない、「ルール」のようなものが感じられるのがエルロイと花村と本作に通底する。「ルール」というのは、「弱肉強食」とかいう動物的なものと、「純粋理性」とかなんとかいう極めて倫理的な・人間的なものの間のどこかにある、本能のままに行動したいけれどもどこかで美を追い求めてしまう人間のあり方のことである。多分。

著者はコアマガジン社の元社員で、編集者時代の経験をもとに本作を書いているという。コアマガジンは、BUBUKAを出しているエロ本系出版社である。表題作は、4名の登場人物が交代で出てくる連作短編のような形式で書かれている。同僚の女を奴隷のように扱って破滅に追い込んでいく、ジゴロ白鳥。アル中で昼間から酒を飲んで会社に来る(しかし敏腕の)編集者逸馬。醜悪な容貌ながら、社内で愛人を作りまくり、職権乱用の限りを尽くす(BUBUKAの)編集長蜂村。変態的な性癖を持ち、雑誌の企画に応募してきた読者とやりまくる貝原。

これだけではよく分からないので、少し引用してみる。例えば、逸馬。敬愛する同僚が、自分と朝まで飲んだ直後に地下鉄サリン事件で死に、そのショックで5日間飲み続けた逸馬は5日目の朝ようやく会社に来る。居酒屋のビール瓶を割って体を傷つけ、全身傷だらけだった。<五日目の夜、逸馬は素っ裸で会社に戻ってきた。身体中を夥しい切り傷と痣と乾いた血痕が支配していた。陰茎が亀頭からざっくりと切れ、辛うじてぶら下がっているそれはまるでなれの果てそのものだったが、卑猥なものとは遠くかけ離れていた。(…)
そのまま会社で飲み続け、瀬戸局長の机の上に脱糞した。逸馬は自らの排泄物を、捩れた指先で捏ね、それを他の編集者の椅子の上や机の下に厳かな手つきで供えた。蜂村の机には、特に念入りに、引き出しの取ってまで塗りたくった。これ以来、彼の会社では自分の机の下を一度よく見てから座る習慣ができた。
後日、逸馬は病院のベッドから何枚もの始末書を提出したが、翌月にはまた同じことを繰り返した。それでも彼は馘首にならなかった。逸馬が酔えば酔うほど、泥沼に溺れ、香料日が遅れて印刷所が悲鳴をあげるほど、本の部数は上昇した。> (pp. 53-4)

このカオスはなんだろうか。これでも、連作四篇のそれぞれのクライマックスのうちでは、まだまともな情景の方である。描かれている、退廃的な(というか退嬰的な)場面と、「始末書」とか「部数増」とかいうコンセプトがあまりにもマッチしない。一見珍妙なことに、このカオスの中でも、「部数絶対主義」みたいなものは貫徹されていて、普段浅はかなはずのその「主義」が作品世界に凄みを与えている。それは例えば、LA四部作でエルロイが描いたLA警察の世界にも似ている。あれもかなり普通の倫理観が通用しない世界であるが、犯罪者を捕まえる組織の目的は、なぜか生き続けている。そういう切れそうな世界を支える一本の糸がぎりぎり切れないというところに、こういう作品が生むカタルシスの源がある。

★★★★☆