『つぎはぎ仏教入門』

つぎはぎ仏教入門

つぎはぎ仏教入門

2011年7月刊、2013年1月14日読了。

呉智英の本は『現代人の論語』を読んで、「ふーん」というくらいの感想なのであったが、宮崎哲弥、山形浩生、小谷野敦など、わたしの尊敬する批評家が一目置いている人であって、興味はあった。それで、宮崎哲弥、呉智英の共著『知的唯仏論』を買ったついでにこちらも購入。出版の順序としては『つぎはぎ』の方が先で、これがきっかけで宮崎、呉の対談本が実現している。

ちなみに、宮崎は、『知的唯仏論』で呉のことを「批評の道での唯一の師匠」と呼び、山形はここ (http://cruel.org/cut/cut199508.html ) で「影響下にある」と認めている。小谷野敦はブログで「先生」と呼んでいる。どうも、この年代の論者に呉は人気があるらしい。

これを読んで、なんとなく理由が分かった。小谷野や山形の議論も、知識人と大衆をめぐるものが少なくないが、その源がここにある。
本書で呉は、仏教の基本教理、歴史、大乗・小乗の違いを淡々と述べ(知らないことがたくさんあった)、最後に現代社会における仏教の意義まで論じている。200ページ程度の短い著作であるが、非常に密度の濃い作品と言えると思う。基本的には、釈迦の教えを「ねじまげてきた」大乗に対して批判的で、よりエゴイスティックな、小乗的な釈迦像を支持する。<何度も書くが、私は仏教を信仰していない。ただ、釈迦は人類史上最古最高の思想家の一人であり、宗教者としても極めて優れた人物であると思う。このような人物がいたことはやはり一つの奇跡であり、釈迦に畏敬の念を抱く。それは、過去の仏教者が神格化して崇める釈迦ではなく、現代の研究者たちが人間的に描く釈迦とも違って、親や妻子を平然と捨てる釈迦であり、若者たちをかどかわす危険人物として町の人に罵られる釈迦である。> (p. 202)

この「あとがき」に著者の立場が明確に表出されている。また5章「仏教と現代」にこう書いている。<(中村うさぎの『私という病』について論じて、中村の)読者としてはこの苦行者(中村)を見ることはスリリングである。それはインド観光で苦行者を見ることと同じなのだろう。
だが、釈迦は自分も苦行に励んだ果てに中道を覚った。苦行はまたこだわりであり、そうであれば無意味なのである。それよりも我執を捨てることが道に適っている。
現代社会は経済的に豊かになり、共同体の拘束力が弱まり、個人の自由度が増した。それは一見良いことのように見えながら「俺が俺が病」があちこちに出現した。社会派砂粒のようになった人々を入れる砂の器になり、黒い我執が現れたのである。しかし、だからといって、共同体の拘束力をむやみに強めることは時に危険が伴う。豊かな社会が急に貧しくなり、肥大した自我を絞るようなことになることも考えにくい。そうであれば、仏教こそが我執を捨てよと呼びかけなければならない。これこそが仏教固有の哲学的使命ではないか。> (pp. 185-6)

ガッテン。「共同体の」云々については、本書内でサンデルらコミュニタリアンの議論を参照しており、そういうものが念頭にあると思う。本書では触れられてはいないが、安倍内閣の教育改革の議論とか、石原慎太郎的な言説も念頭にあるのだろう。そして、批判の的先は、そういう世の中に迎合しようとする日本仏教会のあり方と、仏教を自説に都合よく捻じ曲げて釈迦の考えと全く異なる仏教論に依拠する日本の文化人に向かう(吉本隆明を名指しで批判している)。この最終章とあとがきが本書のクライマックスであろう。仏教の入門書としても読めるし、知識人論の入り口としても刺激的な読み物である。

★★★★☆